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「コント」を中心とした、懐かしい演芸を収録してみました。 1960年代、1980年代と爆発的なブームによって、「永久保存」的な演芸が隆盛しました。 その中で、特に「コントレオナルド」を中心に、私的に注目したコントや漫談等を選び、勝手に「永久保存版」としました。 「Youtube」から消えてゆく多くの、素晴らしい演芸を保存致し度。
堺すすむ 漫談「なーんでか?フラメンコ」をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫談 #堺すすむ ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 堺すすむ 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 堺 すすむ(本名:堺迪、1942年11月23日 - ) 腹話術の川上のぼる門下。従来の声帯模写の枠を突き破り、1曲をパートに分けて何人もの物真似で歌い分けるスタイルを得意とする。また「こんばんは、森進一です」という、森進一の声帯模写の元祖とされている。 中学生時代より在阪民放局の素人演芸番組で活躍。音楽ショウのあひる艦隊(山名派)のボーヤを経て、1960年に千土地興行の川上のぼる門下に移籍。19歳で新世界新花月にて『おしゃべりギター』と題打った、物真似ギター漫談でピン初舞台。1963年に師匠が『川上のぼると大阪ヤローズ』を結成すると、パーカッション・ドラム担当で直ちに参加した。 1967年に独立し上京、持ち前の客いじりにも磨きを掛け、以降40数年間に亙り活躍中。NHKラジオ第1放送の『サンデージョッキー』や『真打ち競演』に数多く出演するのみならず、構成・演出から芸人のブッキングまで幅広く手掛けている。 1980年代後半以降は、物真似から『なんでか?フラメンコ』に比重を移し、新境地を開拓。20回以上出演している日本テレビの『笑点』では、五代目三遊亭圓楽から「この人は、大金脈を掘り当てました」と讃えられた。 1990年代後半には西川貴教(T.M.Revolution)に顔が似ていると話題になり、TBSの『うたばん』に西川が出演した際に「堺すすむに似ている」とネタにされたほか[1]、『東京スポーツ』1998年1月25日号では「TMレボリューション西川貴教・堺すすむ 親子だった!?」の衝撃的な見出しが一面を飾った。また堺自身も『うたばん』(1998年1月20日放送)など若者向け歌番組にも出演し、西川と同じ様な半裸の衣装で大型扇風機の前に立ち「WHITE BREATH」を熱唱したのみならず、寄席の出囃子にも「WHITE BREATH」を用いた。西川も答礼として「♪な〜んでか?」を披露している。 現在は寄席に出ることは通常なく、テレビ・ラジオの演芸番組や地方公演が活動の主体となっている。 なんでか?フラメンコ ・ギター漫談。フラメンコを演奏しながらなぞなぞを出題し、終わりに「♪な〜んでか?」と観客に問いかける。ネタの最後には「オーレ-!」とかけ声で締める。 ・考慮時間を取るため「♪な〜んでか?」を数度繰り返すこともあり、最後に「それはね……」といって、とんちを披露する。中には20年以上ウケ続けているネタもある。 ・NHK「真打ち競演」など、地方収録の際は「なんでか?フラメンコ◯◯編」と銘打ち、収録場所にちなんだギャグを取り入れた新ネタを毎回用意する。「日本にいいところはたくさんあるがこの町が一番いいのはな〜んでか? そう言えと町長に言われたから」がお決まりのオチである。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
五代目 春風亭柳昇の落語 「日照権」をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #落語 #柳昇 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 五代目 春風亭柳昇 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 五代目 春風亭 柳昇(1920年10月18日 - 2003年6月16日) 本名:秋本 安雄。ペンネーム:林 鳴平。 太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入りした。初高座は1946年12月1日の鈴本演芸場昼の部だった。 手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。ただ、数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け(茶漬間男)』などを演じている。 年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、生涯現役の噺家であったが、表舞台での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去した。 日本会議代表委員を務めるなど、保守系の言論活動も行った。 次男はアニメ監督・アニメーターの知吹愛弓。 「春風亭」は元々初代麗々亭柳橋に遡る柳派の亭号である。すなわち柳昇やその一門も柳派の系譜の一員である。まだ二つ目だった時、横浜市の真金町の遊廓の慰労会に招かれて一席を披露したことがある。当時中学生の桂歌丸は、その慰労会での柳昇の落語を生で聴き、「自分も落語家になろう」と思った。 温厚で飄々とした芸風のイメージの持ち主であるが、1984年に所属する芸協が鈴本演芸場と絶縁した際、これを不服とした桂文朝、桂文生、桂南喬が落語協会に移籍したことを聞くと「あいつらとは二度と共演したくない」と激怒するなど、裏切りを許さず生真面目で頑固な一面も持ち合わせていた。 6代目三遊亭圓生が中心人物となり1978年に引き起こされた落語協会分裂騒動の際、圓生の直弟子の中から三遊亭好生と三遊亭さん生が師匠に逆らって落語協会への残留を選んだことから、圓生が両者を破門した上に芸名を剥奪するという事件が起きた。当時芸協の副会長であった柳昇は、好生について客分格の弟子として引き受けた当時の落語協会顧問8代目林家正蔵から相談を受ける形で、好生に「春風亭」の亭号の使用許可を与えており、事実上の“高座の孤児”となった落語家の救済という、当時大揺れの落語業界の懸案事項の解決に団体の枠を超えて一役買う格好になった。 『寄席は毎日休みなし』と題する著書を著したが、寄席を休演することはあった。 冒頭で必ず言うセリフが、「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」。「我が国では」の後の沈黙で観客が笑い出すことが多かった。 晩年は「もうこんなことを言うのも飽きちゃいまして…」と付け加えることもあった。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
レオナルド熊・石倉三郎 「コントレオナルド」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #コント #コントレオナルド ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 コントレオナルド 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 1979年に当時「熊田にげろう」名で活動していたレオナルド熊は、元弟子であるゆーとぴあ・ホープの紹介で石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し、初めて世に出た。しかしレオナルド熊は元々、持病である結核の為に体調不良気味であり、休養する事が多くそれが要因で仕事も減り、収入も安定しない日々が続いてしまう。その為1年弱でコンビを解散する形となる。石倉三郎は一旦芸能界を引退し、その後はマザー牧場で働いていた。 一方レオナルド熊は、解散直後に弟子である後のブッチー武者と「熊田うつぞう・にげろう」を組み、間もなく「コント・レオナルド」に改称したが、命名者であるポール牧に許可もなく無断で改名した為に破門されてしまった。 芸名を新たに活動を始めたが、元弟子とのコンビ仲は良くなかった。レオナルド熊の執拗ないじめを受けたのが元で武者がノイローゼに掛かる深刻な症状となり、さらに『花王名人劇場』出演直前にコント中の舞台で転倒する不運も重なった。この転倒により足を骨折する負傷で休演せざるを得なくなった為、ホープと澤田隆治が取り成して芸能界を引退した後、マザー牧場で勤務していた石倉三郎を説得。再び呼び戻して1981年、二代目「コント・レオナルド」(レオナルド熊・石倉三郎)として再結成させた。 鋭い社会風刺で、お笑いブームの一角を占めて安定した人気を得ていたが、コンビ仲は「ラッキーパンチ」の頃と同様に良くなかった。レオナルド熊にとって『コント・レオナルド』は、自ら作・演出をしており「自分の名を冠した自身の持ち物」という強い意識を常に持ち続けており、自分で『コント・レオナルド』の知名度を上げたんだ、というプライドがあった。しかしその姿勢に対して我慢が出来ず石倉三郎が愛想を尽かし、レオナルド熊も石倉三郎の酒癖の悪さを批判するなど人気絶頂期であったが、1985年10月に喧嘩別れする形で再び解散してしまう。二代目のコント・レオナルドとしての活動期間は4年間であった。 コント・レオナルドを解散後、レオナルド熊は劇団で俳優・主宰として活躍する一方、妻と共に副業も行っていた。石倉は俳優として現在も活躍している。 石倉とレオナルド熊はその後絶縁しており、1994年12月にレオナルド熊が死去した葬式までの9年間以上、一切顔を合わせなかった ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
島田洋七・島田洋八 「B&B」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #B&B ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 B&B 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 5. 🤍 6. 🤍 7. 🤍 8. 🤍 9. 🤍 10. 🤍 11. 🤍 12. 🤍 13. 🤍 14. 🤍 15. 🤍 16. 🤍 17. 🤍 18. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ B&Bは、広島県広島市出身の島田洋七(1950年2月10日 )が、相方を4度変えたコンビ名である。特に岡山県笠岡市出身の島田洋八(1950年2月13日 )と組んだ三代目B&B。コンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた。 結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた。しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった。 1979年、「ヤングおー!おー!」にレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる。東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の吉本興業には、やすしきよし、Wヤング、中田カウス・ボタンといったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀ではほとんど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた、Wヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさとは、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く。東京進出を洋八に話すと二つ返事でOKと言った。上京前日、洋七のアルバイト先のスナックを訪ねた親しい大阪新聞記者に洋七は、「俺は腕はある。自信もある。けど、どこで漫才やったらええねん」と吐露した。これが当時の漫才の置かれた状況。洋七の言葉は、当時の若手漫才師みんなの代弁だった。上方漫才界のガスは、十分に充満していた。 当時の吉本は東京に事務所がなかった。1979年8月26日、NHK教育テレビ『若い広場』「B&Bラストin大阪(うめだ花月)」に出演。同年9月、東京行きを決行した。 東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため。木村政雄は「彼らはまだ、会社として問題になるほどのタレントでもなかった」と述べている。浅草松竹演芸場に当初ノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している。それほど売れていなかったツービートのビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので、借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった。 1980年1月、「花王名人劇場」「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし、星セント・ルイスの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード、蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした。"16ビート"の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた。 こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している。「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCMに起用され、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。『月刊平凡』1980年10月号で紳助・竜介と共に漫才師として初めてアイドル誌のグラビアを飾った。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり出待ちした。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない。 漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』の総合MCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである。『サンデー毎日』1981年1月4日・11日合併号の「ニュー漫才 東西の人気コンビ名鑑」という記事のB&Bの紹介に「大阪にいるころはパッとしなかったが東京に出てくるやたちまち大当たり、一躍人気ナンバーワンとなる。"これが青春だ" "広島名物もみじまんじゅう"など数々のギャグやアドリブ、早口言葉で文字通り体当たり演技」と書かれている。 1980年代初頭の漫才ブームの火付け役となり、ツービートや、当時若手といわれた紳助・竜介、オール阪神・巨人、のりお・よしおらが後に続いた。当時既に星セント・ルイスが人気を得ていたが、この頃の漫才師の中ではB&Bが、アイドル的人気を得てブロマイドが売れるという現象まで引き起こし一気に追い抜いた。B&Bは若い女性に大人気となり、ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベル堂の歴史で初めてのことだった。この人気でピーク時で、週に26本、月84本、あるいは月100本以上もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる。月84本をやっていた時は、70本ぐらいで芸能界は俺一人でやってる気持ちになったという。2012年10月、「笑ってる場合ですよ!」の総合MCに抜擢される。どのチャンネルをひねってもB&Bの見られない日はないほどの人気だった。スケジュール表は真っ黒、寝るのは移動の車と列車の中という忙しさだった。1981年のさっぽろ雪まつりは雪像の大部分がB&Bで飾られた。1981年暮れの特番確保にB&Bを独占するため、各テレビ局は1本500万円の軍資金を用意した。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのためギャラは3人で分けて毎月数千万を紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った。漫才ブーム当時は漫才師で最も人気が有り、洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と自称している。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #B&B
五代目 春風亭柳昇の落語 「カラオケ病院」をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #落語 #柳昇 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 五代目 春風亭柳昇 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 五代目 春風亭 柳昇(1920年10月18日 - 2003年6月16日) 本名:秋本 安雄。ペンネーム:林 鳴平。 太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入りした。初高座は1946年12月1日の鈴本演芸場昼の部だった。 手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。ただ、数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け(茶漬間男)』などを演じている。 年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、生涯現役の噺家であったが、表舞台での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去した。 日本会議代表委員を務めるなど、保守系の言論活動も行った。 次男はアニメ監督・アニメーターの知吹愛弓。 「春風亭」は元々初代麗々亭柳橋に遡る柳派の亭号である。すなわち柳昇やその一門も柳派の系譜の一員である。まだ二つ目だった時、横浜市の真金町の遊廓の慰労会に招かれて一席を披露したことがある。当時中学生の桂歌丸は、その慰労会での柳昇の落語を生で聴き、「自分も落語家になろう」と思った。 温厚で飄々とした芸風のイメージの持ち主であるが、1984年に所属する芸協が鈴本演芸場と絶縁した際、これを不服とした桂文朝、桂文生、桂南喬が落語協会に移籍したことを聞くと「あいつらとは二度と共演したくない」と激怒するなど、裏切りを許さず生真面目で頑固な一面も持ち合わせていた。 6代目三遊亭圓生が中心人物となり1978年に引き起こされた落語協会分裂騒動の際、圓生の直弟子の中から三遊亭好生と三遊亭さん生が師匠に逆らって落語協会への残留を選んだことから、圓生が両者を破門した上に芸名を剥奪するという事件が起きた。当時芸協の副会長であった柳昇は、好生について客分格の弟子として引き受けた当時の落語協会顧問8代目林家正蔵から相談を受ける形で、好生に「春風亭」の亭号の使用許可を与えており、事実上の“高座の孤児”となった落語家の救済という、当時大揺れの落語業界の懸案事項の解決に団体の枠を超えて一役買う格好になった。 『寄席は毎日休みなし』と題する著書を著したが、寄席を休演することはあった。 冒頭で必ず言うセリフが、「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」。「我が国では」の後の沈黙で観客が笑い出すことが多かった。 晩年は「もうこんなことを言うのも飽きちゃいまして…」と付け加えることもあった。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
広島に住む田んぼをお持ちの皆様へ ナカネトノサマガエルでございます。 クェ 我慢がおさえきれず、ごめんなさい。 みなさまが楽しんでくれていると信じて、これからも、泣き続けます。 クェクェクェクェ ごぜん様さま 🤍
2020年2月21日 浅草演芸ホール 「松之丞改め六代目神田伯山真打昇進襲名披露興行」 ▶神田伯山 オフィシャルサイト 🤍 ▶神田伯山 Twitter 🤍 撮影・編集:岩淵弘樹 監修:九龍ジョー 制作:冬夏株式会社 VIDEO by Digital Media Label
当時の竹書房スタッフの手による高座の記録映像を編集したコンテンツです。 トレードマークだった着物姿にヘアバンドをしたまくらでは、1998年末から1999年の年始の世相を軽く斬り、己の価値観をたっぷりと語り、動物ジョークから、「笑い」について考察する。笑いに関する古典落語の珍品演目の『笑い茸』と『胡椒の悔やみ』を続けて口演した観客サービスタップの高座。 【使用カメラ】SONY DCR-VX1000(ヨリ画) SONY DCR-VX9000(ヒキ画) 【録音音声】高座マイク音声ライン(MONO) チャンネル登録、よろしくお願いいたします。
桃から生まれた桃太郎!天に代わって鬼退治いたす ひとつ。人の世 生き血を啜り ふたぁ~つ。不埒な悪行三昧 みっつ。醜い浮世の鬼よ。退治してくれよう。桃太郎 ごぜん様さま 🤍
5代目•桂三木助師匠に密着取材! 師匠のご案内のもと、 浅草演芸ホールの表と裏を ご紹介致します。 "落語"と聞くと、 やや敷居が高く感じますが、 演芸ホールはアットホームで、 どこか懐かしくて温かい空気に 包まれています。 "受付嬢"の可愛いジロリちゃんも 演芸ホール訪問の楽しみの1つ。 五代目•三木助師匠の話芸に、 惹き込まれて爆笑に浸りました。 是非お愉しみください☆ ★撮影協力 ○浅草名代らーめん 与ろゐ屋 🤍 東京都台東区浅草1-36-7 03-3845-4618 ★「浅草Kageチャンネル」 爆笑似顔絵カリカチュアジャパン(株)の 代表取締役/代表アーティストkageが、 愛する地元浅草にある名店と、 そこに生きる人たちの魅力を、 明るく楽しくお伝えします。 ★カリカチュア・ジャパン公式サイト 🤍 ★似顔絵のご注文はこちら 🤍 《出演者》Kage ★Instagram 🤍 ★facebook 🤍 《撮影・編集》スーさん ★Instagram 🤍 ★Facebook 🤍 #浅草 #Kage #浅草グルメ
デューク中根更家がウォーキングの極意を伝授! さあ、みんなもいっしょにエクササイズ! ずっと座ってるし。 ごぜん様さま 🤍
玉川ゆたか・松木ぽん太・二葉しげる・松浦武夫 「玉川カルテット」の浪曲漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #玉川カルテット ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 玉川カルテット 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 玉川ゆたか 初代リーダー。本名:茶間豊。1939年-1996年5月19日。 1956年、3代目玉川勝太郎に入門し(初代)玉川福助を名乗った。コメディアンの玉川良一は叔父弟子にあたる。『一本刀土俵入』『吉良の仁吉』『瞼の母』等を得意とした。バラエティー番組にもピンで時折出演していた。メンバーで唯一、楽器を持っておらず、迫力ある声とメンバーを叩いてツッコむために持っていた扇子がトレードマークだった。ボーイズバラエティ協会理事長も務めた。 松木ぽん太 三味線担当。1937年生まれ。 幼少時からヴァイオリンを習い、続いてウッドベースもマスター。浅草常盤座専属楽団員を経て、1958年からは天津羽衣の歌謡浪曲バンド「木の実グループ」で活動。楽器は一通りこなす芸達者で、三味線の早弾きで場を盛り上げる。おかまキャラで、ネタでは必ず女性役を演じた。素通しのロイド眼鏡がトレードマーク。 二葉しげる ギター担当。1939年生まれ。 コミックバンドのメンバーを経て、1964年に上京し二葉百合子や4代目天中軒雲月に師事する。1965年に松浦と共に玉川ゆたかに誘われ加入。コブシ回しが売り物。メンバーの中で一番背が低く「金も要らなきゃ 女も要らぬ 私ゃも少し 背が欲しい」という一節は玉川カルテットの代名詞となっていた。 松浦武夫 前ギター担当(甲高い声の合いの手も担当)。1938年生まれ。 1964年、「あきれたトリオ」に加入し、翌年二葉と共に玉川カルテットに移籍して、天才バカボン、忍者ハットリくん似の愛敬ある風貌で人気者に。「松浦たけお」と名乗っていた時期もある。ギター演歌の節は一級品だったが、病魔に倒れ2005年頃に引退。 1961年に3代目玉川勝太郎門下の玉川ゆたかが、夫婦浪曲漫才コンビ「玉川兄弟」を結成。1962年に伊丹明が加入し「玉川トリオ」となる。間もなく伊丹が脱退し、天津羽衣門下から松木ぽん太が加入。1965年に二葉しげるが加入し「玉川カルテット」が成立。同年「あきれたトリオ」(後のあきれたダンディーズ)から松浦武夫が加入し、入れ替わりで玉川ゆたか夫人が脱退。 1996年にリーダーのゆたかが死去。グループ解散の危機に瀕するも、同年6月に運転手兼マネージャーの平助を形式上の新リーダーに昇格させ、活動存続。 1998年に大瀧詠一のプロデュースで『列島どっきり宅配便』(テレビ東京系)の番組テーマ曲『玉カルのアンアン小唄』をリリース。22年振りの新曲だった。 2005年に松浦が病に倒れ脱退。同年4月に仲が加入。 2007年に病弱の仲と入れ替わりで、上原が加入。 2010年に病気の平助と入れ替わりで、平次が加入。 2011年に玉太郎(イエス玉川)が新リーダーとなる。 2013年に玉太郎が脱退、ゆたかの弟子の平太朗を新リーダーに迎え再出発。 2013年に横浜にぎわい座にて「玉川カルテット最後の公演」を行い解散。 イエス玉川が2月に抜けたことにより、このメンバーでの玉川カルテットの活動は最後ということであり、3月からは新リーダー、玉川平太郎が加入し、従来通り玉川カルテットとして全国各地で活動している。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
レオナルド熊・石倉三郎 「コントレオナルド」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #コント #コントレオナルド ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 コントレオナルド 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 1979年に当時「熊田にげろう」名で活動していたレオナルド熊は、元弟子であるゆーとぴあ・ホープの紹介で石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し、初めて世に出た。しかしレオナルド熊は元々、持病である結核の為に体調不良気味であり、休養する事が多くそれが要因で仕事も減り、収入も安定しない日々が続いてしまう。その為1年弱でコンビを解散する形となる。石倉三郎は一旦芸能界を引退し、その後はマザー牧場で働いていた。 一方レオナルド熊は、解散直後に弟子である後のブッチー武者と「熊田うつぞう・にげろう」を組み、間もなく「コント・レオナルド」に改称したが、命名者であるポール牧に許可もなく無断で改名した為に破門されてしまった。 芸名を新たに活動を始めたが、元弟子とのコンビ仲は良くなかった。レオナルド熊の執拗ないじめを受けたのが元で武者がノイローゼに掛かる深刻な症状となり、さらに『花王名人劇場』出演直前にコント中の舞台で転倒する不運も重なった。この転倒により足を骨折する負傷で休演せざるを得なくなった為、ホープと澤田隆治が取り成して芸能界を引退した後、マザー牧場で勤務していた石倉三郎を説得。再び呼び戻して1981年、二代目「コント・レオナルド」(レオナルド熊・石倉三郎)として再結成させた。 鋭い社会風刺で、お笑いブームの一角を占めて安定した人気を得ていたが、コンビ仲は「ラッキーパンチ」の頃と同様に良くなかった。レオナルド熊にとって『コント・レオナルド』は、自ら作・演出をしており「自分の名を冠した自身の持ち物」という強い意識を常に持ち続けており、自分で『コント・レオナルド』の知名度を上げたんだ、というプライドがあった。しかしその姿勢に対して我慢が出来ず石倉三郎が愛想を尽かし、レオナルド熊も石倉三郎の酒癖の悪さを批判するなど人気絶頂期であったが、1985年10月に喧嘩別れする形で再び解散してしまう。二代目のコント・レオナルドとしての活動期間は4年間であった。 コント・レオナルドを解散後、レオナルド熊は劇団で俳優・主宰として活躍する一方、妻と共に副業も行っていた。石倉は俳優として現在も活躍している。 石倉とレオナルド熊はその後絶縁しており、1994年12月にレオナルド熊が死去した葬式までの9年間以上、一切顔を合わせなかった ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
今回の講師は、漫才師のナイツさん。 映画『浅草キッド』の背景にある、浅草演芸を語る。 「漫才」と「解説パート」どちらもお楽しみください。 それではネトフリアカデミー開校です。 *ネタバレを含みます。予めご了承ください。 浅草キッド 🤍 Netflixで配信中 *配信は予告なく終了となる場合があります。 チャンネル登録: 🤍 Netflix公式SNS: ➡️TWITTER: 🤍 ➡️ANIME TWITTER: 🤍 ➡️INSTAGRAM: 🤍 ➡️FACEBOOK: 🤍
当時の竹書房スタッフの手による高座の記録映像を編集したコンテンツです。カメラ操作、録音技術ともにB級品なので、長年商品化の対象にならず、お蔵入りしておりましたが、貴重な62歳の談志師匠の高座映像を復刻させました。 仲入り後に二席を語るエネルギーに驚愕させられる。ネタ帳を見てから選んだのは、相撲噺の『阿武松』。客席に向かって「あんまり聴いたことがねぇだろ?」。 【使用カメラ】SONY DCR-VX1000(ヨリ画) SONY DCR-VX9000(ヒキ画) 【録音音声】 高座マイク音声ライン(MONO)+客席内カメラ内蔵ステレオ録音 チャンネル登録、よろしくお願いいたします。
「横山やすし・西川きよし」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #やすしきよし ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 横山やすし・西川きよし 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 5. 🤍 6. 🤍 7. 🤍 8. 🤍 9. 🤍 10. 🤍 11. 🤍 12. 🤍 13. 🤍 14. 🤍 15. 🤍 16. 🤍 17. 🤍 18. 🤍 19. 🤍 20. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ コンビ解消を繰り返していた横山やすしが中山礼子・八多恵太の勧めで吉本新喜劇の役者だった西川きよしを誘い、1966年5月21日にコンビ結成。コンビとしての初舞台は同年6月1日の京都花月。1960年代の演芸ブームで世に出て人気者となる。その後1980年代に至るまでテレビ番組の司会などで活躍。1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点に達した。 1986年、西川きよしが国会議員(参議院)に当選して以降は活動休止状態となった。コンビとしての最後のテレビ出演は、『MAGMA30』での「二府四県対抗なんでもコンテスト」の司会だった。一方、横山やすしは度重なる不祥事で活動機会が激減し、やがて吉本興業の専属契約を解除。これによってコンビは事実上の解散状態となった。再結成のないまま横山やすしは1996年1月21日死去。西川きよしは2004年に参議院議員が任期満了となった後も、レギュラー番組を持つなど、第一線で活躍している。 横山やすし・西川きよしの初期のネタは、横山やすしが漫才のネタの台本の半分以上を書き、西川きよしがそのネタに訂正を加える形で行われたという。当初はお互いがお互いを蹴飛ばしたり投げ飛ばしたりし、「黒い背広が(ホコリで)真っ白になった」というほどの激しい「暴力漫才」で名を売った。 また、ライバルを見て、秘策を考えるなど、コンビが成功するために数多くのチャレンジをしていった。「客を波打たせる」をキーワードに、動きのギャグを控えて言葉のギャグの比率を高め、芸にメリハリを付け、間断なく客を笑わせるための芸風の改良をおこなっていった。 横山やすし・西川きよしは両方ともボケ・ツッコミができ、漫才の流れによっては、横山やすしがボケてきよしがツッコミをしている時に、不意に西川きよしがボケて横山やすしがツッコむという局面がある。つまり、漫才中に役割(ポジション)が突如交代する。この当時新奇だった形式は「『ボケ』と『ツッコミ』を交互に入れ替える“型破り漫才”」と評された。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
2022年9月に行われたライブ『アンスリウムレッド』の模様です! 演芸おんせん 公式プロフィール 🤍 #マセキ芸能社 #元フカミドリ #漫才
「あした順子・ひろし」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #順子ひろし ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 あした順子・ひろし 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ あした順子(1932年12月12日)本名:河野 順子 両親は音曲漫才の市山寿太郎・小寿。父・寿太郎(河野晴雄)は当時珍しい大卒芸人で、英語が堪能だったという。日本舞踊市山流の名取、壮士芝居、講釈師を経て、妻とコンビを組んだ。 姉の一枝は大阪の上方柳次に嫁ぎ、のちに夫婦で漫才コンビを組んだ。いとこは歌舞伎役者の六世中村東蔵、日本舞踊家の藤間紫。芸能一家に育ち、日本舞踊やモダン・バレエの素養があったため、戦後間もなく、楽団専属ダンサーとして進駐軍のキャンプ回りで稼ぎ始める。その後1950年に一般人と結婚し娘1人をもうけたが、怠け者の夫に愛想を尽かせてすぐ離婚。松旭斎一門の奇術師(和妻師)「松旭斎純子」として再出発したところを、旧知のひろしに見出されコンビを組んだ。結成当時の芸名は南順子。 2010年5月にひろしが膝を悪くして入院して以来、順子は一人で高座に上がったり、昭和こいるや内海桂子とコンビを組んで、漫才をしたりしていた。ひろしの死後、2017年4月30日付で落語協会を退会し事実上引退した。 あした ひろし(1922年6月10日 - 2015年11月3日)本名:大野 寛。 兵役検査では、丙種合格に留まったため徴兵されなかった。大都映画の雑用係、『笑の王国』の端役、東海林太郎らの歌謡ショーの司会者を経て、順子とコンビを組む。結成当時の芸名は北ひろし。長兄は将棋棋士の大野源一で、大野によればひろしの将棋の腕前もプロ級とされる。なお、大野は1979年1月14日、踏切をくぐろうとしたところに列車にはねられ、帰らぬ人となっている。 2015年11月3日、老衰のため逝去した。 1960年に南 順子・北 ひろしの名で結成。最初は漫才ではなく、ひろしの司会で順子が手品をするマジック・コント主体だったが、覚えも要領も悪いひろしを、順子が舞台上で思わず叩いたのを見たリーガル天才・秀才に、どつき漫才への転向を勧められる。歌謡ショーやキャバレー、女子プロレスの前座などで稼ぐうち、ドサ回りで芸が荒れるのを自覚し、1965年の大須演芸場開場を期に高座に専念。秋田實の後見を得て1960年代末から上方に移り、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、かしまし娘ら大看板の中で揉まれて芸を磨き、認められて「秋田」の屋号を許されたものの、畏れ多いと辞退して、一字違いの「あした」を名乗るようになった。 大阪万博終了後の1971年に拠点を東京に戻し、五代目柳家小さんの身内となり、落語協会に入会。1976年、漫才協会真打ちに昇進。ひろしが老境に差しかかった1990年代後半から猛然と売れ出す。弟子はいない。 2010年5月以降、ひろしの病気療養でコンビとしての活動は見られなくなり、2015年11月にひろしが逝去。その後、2017年4月に順子が落語協会を退会し引退。 ・漫才でふたりは夫婦のような役回りを演じた。恰幅のよい順子が亭主を尻に敷く猛妻のような貫禄を漂わせ、痩身のひろしは妻に頭が上がらぬ蚤の亭主のようにたたずんだ。順子が大声で一方的にまくし立てたりひろしを張り倒したりし、弱々しいひろしが狼狽する滑稽な構図は、幅広い世代から支持された。「間」で勝負する芸風で、矢継ぎ早なしゃべくりが主体の東京漫才では異色であった。 ・時事を扱ったネタを得意にした。マイケル・ジャクソン死去時はひろしの「暗闇の歩き」のような珍妙なムーンウォークで演芸場内を沸かせた。テレビドラマ『アテンションプリーズ』が人気だった頃には「アテンション、ブー」で始まる航空ネタを展開し、パラパラ、マツケンサンバ、モーニング娘。、ヒロシ、羞恥心などもギャグに変えた。 ・武田鉄矢・芦川よしみの『男と女のはしご酒』の替え歌を、ふたりが向き合ってジルバのステップで歌い踊るもの。 ・順子が「男は〜あなたひろしぃ〜」と歌うと、ひろしが「女は〜君さ順子ぉ〜」と返し、ふたりで「切なさが胸に来る……」と揃え、調子づいて順子に迫るひろしを、順子が「気持ちが悪いよ〜!」と叫んで突き飛ばす。 ・日本舞踊の名取である順子が、切れの良い所作を見せるのに対し、ひろしは順子の軽快な動きについていけず、戸惑うしぐさを見せる。 ・順子が『黒田節』を謡いつつなぎなた捌きを披露し、小道具を持ちながら前を横切るひろしを足蹴にするネタは、正月初席などで見せた。 ・女子プロレス興行の前座として巡業した際、現役レスラーから伝授され体得した技で、首投げよりむしろフライング・メイヤーと呼ぶのが正しい。体格の良い順子が痩躯のひろしを投げ飛ばし、柔道初段の心得のあるひろしが見事な受身を披露する定番ネタ。高齢となってからは披露されなくなった。 ・2016年12月7日、マツコ&有吉の怒り新党のコーナー「記憶調査委員会」で『オチで相方を投げ飛ばすベテラン漫才師がいた』としてあした順子・ひろしが取り上げられ、首投げを決める当時の貴重な映像が披露された。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
当時の竹書房スタッフの手による高座の記録映像を編集したコンテンツです。 この演目が「ひとり会」にかけられたには非常に珍しく貴重な音源です。 【使用カメラ】SONY DCR-VX1000(ヨリ画) SONY DCR-VX9000(ヒキ画) 【録音音声】 高座マイク音声ライン(MONO) チャンネル登録、よろしくお願いいたします。
ぼんちおさむ・里見まさと 「ザ・ぼんち」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #ザぼんち ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 ザ・ぼんち 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 5. 🤍 6. 🤍 7. 🤍 8. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ぼんち おさむ(1952年12月16日)本名:長瀬 修一。 松竹新喜劇俳優の曾我廼家明蝶の開設した俳優養成所「明蝶芸術学院」で喜劇役者を目指すが、タイヘイトリオの勧めで漫才に転向し浮世亭歌楽の指導を受ける。3か月ほど「やらかす一石・二蝶」というコンビを組んでいた。 「ザ・ぼんち」の一時解散後、俳優としての活動を始め、『はぐれ刑事純情派』などのテレビドラマなどに出演。 里見 まさと(1952年4月25日)本名:里道和。 小学校3年生の時に両親が離婚したのちは、父に育てられる。プロ野球選手を目指して大阪の興國高校に進学し、野球部に入部するも、レベルについていけず野球を断念。そんなときに読んだ週刊誌で「西川きよしさんが『二十歳で家建てた』っていう記事を偶然読んで、こら漫才しかないなあと思い立った。高校時代の同級生にのちの相方・おさむや九十九一がいた。高校卒業後の1971年にタイヘイトリオに入門。 「ザ・ぼんち」の一時解散後、おさむ同様俳優業に挑むも、収入が月7万円に落ち込むなど、家族4人で生活できないほど困窮し、自殺を考えるほど追い詰められたが、テレビ番組で共演した亀山房代とともに1989年、「里見まさと・亀山房代」を結成、若手扱いから再出発し、1997年に第26回上方お笑い大賞金賞、1998年に上方漫才大賞を受賞するに至った。亀山の結婚・妊娠により、2001年末に「まさと・亀山」は円満解散した。 最近はピンでの落語や講談にも力をいれており、とくに講談は3代目旭堂小南陵(後の4代目旭堂南陵)の勉強会に参加し10席ほど稽古を付けてもらっている。講談師としての芸名は「旭堂 南総里見八犬伝」。 おさむとまさとは大阪の興國高校の同級生であった。ともにタイヘイトリオに師事(レツゴー三匹の弟弟子にあたる)。1972年11月にコンビを結成し、翌年の1973年コンビ名を「ザ・ぼんち」として、同年なんば花月中席で初舞台を踏む。コンビ名は、山崎豊子の小説『ぼんち』に由来。当初は松竹芸能に所属したが、やがて和光プロダクションを経て吉本興業に移籍。1975年に発足した秋田實ら漫才作家による若手養成の会「笑の会」に第1期メンバー(他にチグハグコンビ、ガッツジョージ・アーボー、海原はるか・かなた、森啓二・喜多洋司)として入会し、腕を磨いた。 そのかたわら、ぼんちは毎日放送『ヤングおー!おー!』の番組内ユニット「チンチラチン」のメンバーとして売り出し、同局の『モーレツ!!しごき教室』にも出演して若手タレントの注目株と目された。 やがてザ・ぼんちは1978年10月8日の同会の東京公演「やりまっせ!! 大阪漫才 東京なぐりこみ爆笑大会」において、漫才作家の大池晶が「特にぼんちの漫才の受け方は異常でした」と回想するほどの爆笑を生み、この様子を観客として見ていた東阪企画の澤田隆治に、のちに漫才ブームのきっかけとなる様々な番組の企画を決意させるきっかけとなった。 1980年、関西テレビの『花王名人劇場』やフジテレビの『THE MANZAI』など、澤田や横澤彪らの仕掛けによる一連の漫才番組に横山やすし・西川きよし、B&B(島田洋七・島田洋八)、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シローらとともに出演。たちまち全国的な人気を獲得するに至る。ぼんちはそれまで関西以外では無名に近いコンビだったが、『THE MANZAI』第1回放送の翌日、長崎大学の学園祭に出演するため飛行機で移動していた2人に客室乗務員がサインを頼んでくる状況に直面し、まさとは「僕の人生は変わった」と感じたという。 1981年、シングルレコード「恋のぼんちシート」を発売し、売上約80万枚に達し、オリコンチャートでは最高位2位を記録する大ヒット曲となり、同年全国7か所縦断コンサートを開催。最終日の7月21日には日本武道館で公演し、武道館でコンサートを開催した初の漫才師となった。このころまさとは「末路は哀れでもええから、人気のあるうちに好きなことしよう」とコンビで話し合ったことをのちに回想している。この時期、テレビ・ラジオのレギュラーが週14本あったのに加え、劇場の出番をこなし、合間に取材を受けるという殺人的な多忙ぶりとなり、静岡と山梨で同日同時間に営業の仕事が重なる状態となり静岡からヘリコプターで山梨に移動した、楽屋で点滴を打っていた、などのエピソードが残る。 漫才ブームが沈静化するに従い仕事が減少し、また芸の消耗が激しかったこともあり、ザ・ぼんちは1986年に、一時コンビを解散した。 長い休止期間をはさみ、2002年に再結成した。2014年にはかつての同名の番組にちなんだコンテスト番組『THE MANZAI』に出場、認定漫才師50組に選出された。その予選控え室や会場通路の至る所で熱心に練習に励む若手の熱気と気迫に圧倒され、年数制限がないからと軽い気持ちの参戦を後悔する反面、前向きに漫才に取り組む若者達の姿に感動し、以後レギュラーの劇場出番のほか、若手中心のライブや学園祭にも積極的に参加し、記念ライブの会場に敢えて若手中心プログラムの常設劇場であるルミネtheよしもとや、古い歴史を持つ大須演芸場を選ぶなど、ベテラン、大御所という自覚を持たず若手と同じ目線、立場での芸能活動を展開している。 スマートな男前のまさとが丁寧にネタを振り、そこへ乗って大きくボケるおさむのコンビは異色であった。この構図の原点はアメリカのコメディアンのコンビ「底抜けコンビ」(ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス)にあるという。おさむはルイスの大ファンであることを公言しており、髪型やダンスなど、芸風が重なる部分も多々ある。 結成当初は秋田實直系の正統派のしゃべくり漫才を志向していたが、ギャグと動きが満載の爆笑漫才でブレイクしたため「引っ込みがつかなくなった」。 漫才ブームの時期は通常の背広ではなく、いわゆる「アイビールック」を着用し、トレードマークとなった。 ・おさむちゃんで〜す(おさむ) このセリフのあと続けて自分の頭をげんこつで叩くフリをしながら口内で舌を鳴らす。 ・おさむ「そうーなんですよ、川崎さん」→まさと「ちょっと待ってください、山本さん」 テレビ朝日系『アフタヌーンショー』のレポーター山本耕一と司会者・川崎敬三のやりとりをものまねしたもの。「恋のぼんちシート」の中でも演じている。 ・○○……、潮来の伊太郎〜、あれ〜(おさむ) 橋幸夫のものまね。何を歌っても橋幸夫になってしまい、歌声の確認のために短く「潮来笠」を歌っては困るさまを演じる[8]。 ・今日、耳日曜(おさむ) ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
篠原演芸場 令和5年6月公演 #team純弥 #恋川純弥 【team純弥】DREAM TEAM 関東初公演 この瞬間だけは見逃すな 篠原演芸場6月公演 皆様の御来場お待ちしております! 本職は劇場勤務の素人が宣伝用に作っております 編集・構成至らない点も多々在りますが 温かい目で見守ってください☆★ 篠原演芸場&浅草木馬館 HP 🤍 ☆★篠原演芸場★☆ ・facebook 🤍 ・Twitter 🤍 ☆★浅草木馬館★☆ ・facebook 🤍 ・Twitter 🤍 ・Instagram 🤍 ☆★☆★企画で大衆演劇に触れてみませんか?☆★☆★ ・YouTube等の企画で大衆演劇の場所、企画提供できます! なんでもご相談ください ↓浅草木馬館公式LINE↓ 🤍
当時の竹書房スタッフの手による高座の記録映像を編集したコンテンツです。 まくらで終活に憧れる心境を語った後に、精力が必要な江戸っ子と奉行が登場する落語二席に入る談志師匠。90年代はまだまだお元気だった様子がうかがい知れる。 【使用カメラ】SONY DCR-VX1000(ヨリ画) SONY DCR-VX9000(ヒキ画) 【録音音声】 高座マイク音声ライン(MONO) チャンネル登録、よろしくお願いいたします。
2021年10月に行われたライブ『ライラックブルー』の模様です! 演芸おんせん 公式プロフィール 🤍 #マセキ芸能社 #元フカミドリ #漫才
「桜井長一郎」の声帯模写をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #ものまね #桜井長一郎 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 桜井長一郎 1. 🤍 2. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 桜井 長一郎(1917年10月31日 - 1999年3月4日) 「声のスタイルブック」と称してモダンな語り口の漫談を交えながら、政治家、映画スター、楽器、動物まで、幅広いレパートリーの物真似を披露し人気を博した。琴の音を真似る最中に客に向かって言う「上見てたってダメですよ、あたしが口でやってるんだから」のフレーズがお馴染み。 素人時代より物真似を得意とし軍隊を経て東宝演劇部の社員でマネージャーからプロの道へ、1948年(昭和23年)にNHKの「のど自慢素人演芸会」に出場して優勝。1952年(昭和27年)に30歳を越えてから芸の世界に入り自身の死去まで約半世紀,活動範囲は舞台を中心にテレビ出演も度々こなした。 1999年(平成11年)3月4日、東京都八王子市の自宅でくも膜下出血により死去。 舞台で琴の音色を真似ている最中、あまりにもそっくりだったことから客席にいたお婆さんは、隠したスピーカーから本物の琴の音を流していると思い込み、スピーカーを探して舞台の天井を覗き込んだ。その様子を見た舞台上の桜井が、「上見たって何もないですよ」と声をかけたのが大ウケとなり、以来これをお馴染みのギャグとした。 プライベートの時、一般人から「物まねやって」と頼まれたが、「馬鹿いうんじゃない。タダで出来る物か。例えばあんたの商売が電気屋だったら『テレビくれ』って言ってるようなもんだよ。もし私が物まね披露したらあんた何か商売の物くれるのか?」と返した。ところがその人の商売はせんべい屋で、結局せんべい2枚でその人に物まねを披露したという。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
海原千里(上沼恵美子 )・海原万里 「海原千里・万里」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #上沼恵美子 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 海原千里・万里 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 海原万里(芦川百々子、1949年11月29日 ) 海原千里(上沼恵美子、1955年4月13日 - ) 2人は実姉妹で、旧姓は橋本。いずれも本名と現芸名は同じ。 幼少の頃よりラジオ番組やテレビ番組の素人コンクールに本名で出演。この頃父を入れてトリオで三味線を持って浄瑠璃を語ったりアコーディオンを持ったり、音曲漫才をやった事もある。万里が秋田實に、師匠を紹介してもらうような手紙を送ったところ、「女の子やったら女の師匠がええ」といった返事であったことから、千里の中学校卒業後の1971年に海原お浜・小浜に入門し、すでにデビュー予定であった万里が相方の失踪で急遽姉妹漫才コンビとしてデビュー。一番最初に付けられたコンビ名は「海原なると・わかめ」だった。 『スター漫才選手権』(毎日放送)にアシスタントとして出演。当時はまだ無名であったが、司会のロイ・ジェームスに「このコンビは絶対出世する」と言われた。1974年、フジテレビの時代劇『座頭市物語』第十八話「すっとび道中」に湯治場の仲居役で出演。千里による欧陽菲菲などの物真似が受ける。1976年には東映の大ヒット映画「トラック野郎シリーズ」の第3作『トラック野郎・望郷一番星』にドライブインの女主人役でゲスト出演、更に『銭形平次』にも姉妹でレギュラー出演。 1977年、千里が上沼真平と結婚したため、コンビを解消し芸能界から引退した。しかし、千里は翌1978年に「上沼恵美子」名義で芸能界に復帰した。姉の芦川百々子は現在主婦だが、妹の上沼の番組にゲストで出演することが多く、歌番組にも出演することがある。 2015年11月24日、 NHK大阪ホールで行われた『NHK歌謡コンサート』「愛あふれるデュエット名曲集」にて「大阪ラプソディー」を芦川百々子・上沼恵美子の名義として音楽番組では15年ぶりに熱唱し、姉をリードする上沼恵美子の姿が見られた。 上沼は金銭的な原因で姉と8年間ほど不仲だったと明かしている。上沼によると姉はタレントと結婚したが彼が活躍が出来なかったため収入が低く、長きに渡って金銭的な援助を行っていた。しかし、姉からお礼の言葉がなかったことから気分を害し、険悪な関係が続いたという。上沼は毎年開催していたコンサートにも不仲だった期間は、姉を招かなかった。なお、2人は現在関係を修復しており、コンサートでも共演している。 ビートたけしは女流漫才コンビのほとんどを認めていないが、例外として海原お浜・小浜と千里・万里を挙げている。特に千里・万里については「巧かった」と懐述している。 島田紳助は下積み時代に、彼女たちの漫才を見て台詞をすべてノートに書き起こし、その面白さの秘密を研究しそれを元に島田紳助・松本竜介の漫才を作り上げていった。 爆笑問題の太田光は、千里・万里は漫才史上「革命的」な存在であり、絶対に「どつく」ようなことはせず、喋り一本で勝負していたと語っている。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
安政四年(1857年)の開業から数えて163年の歴史を持つ老舗の寄席「鈴本演芸場」を春風亭一之輔がご案内! 落語通も知らない人も必見の情報多数です!お見逃しなく!! #落語 #鈴本演芸場 #春風亭一之輔
「早野凡平」のボードビルをお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #ボードビル #早野凡平 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 早野凡平 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 早野 凡平(1940年2月21日 - 1990年5月3日)本名は松本光弘。 大道芸人のパン猪狩の弟子。新宿松竹文化演芸場の研究生として出入りしているうちにこの世界に入った。その後キャバレー廻りなどを経験して、主にテレビの演芸番組や舞台で活躍した。 「ホンジャマーの帽子(ホンジャマカ帽、マジックハット)」と呼ばれる、帽子を用いたヨーロッパ起源の古典芸が有名。この帽子は帽体とツバの部分が分離するようになっており、早野は慣れた手つきで黒い帽子を様々な形に変形させて、有名人や動物の真似をして人気を博した。「牧師」、「スチュワーデス」、「ナポレオン」、「カウボーイ」、「ローマ法王」(なぜか2度やってしまう)、「鞍馬天狗」(名乗る際、頭巾に見立てた帽子が落ちてしまう)等が定番ネタ。「ホンジャマー、ホンジャマカ…」と舌足らずな歌を歌いながら、次々と繰り出すのが特徴。 この帽子芸によりテレビ出演も増え一躍人気者となり、舞台トークのネタとして「この帽子のおかげで練馬に家を建てることができました」と語っていた。 とんねるずの石橋貴明がデビュー初期に早野の帽子芸を真似たネタをしていたことがある。また、お笑いコンビのホンジャマカの名前は、この帽子芸に由来する。 帽子以外の芸としては、長さが異なる4本の蛇腹状のホースを振り回して音を鳴らす「パイプオルガン」がある。4本のホースを器用に使い分け、低い音を出すときはゆっくり振り回し、高い音を出すときは早く振り回す。レパートリーは、「黒田節」、「船頭小唄」など。 1980年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。 1990年5月3日、転移性肺がんのため、死去。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
中田ダイマル・中田ラケット 「中田ダイマル・ラケット」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #ダイマルラケット ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 中田ダイマル・ラケット 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 5. 🤍 6. 🤍 7. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 中田ダイマル(本名:中田勇夫、1913年12月14日 - 1982年9月5日) 中田ラケット(本名:中田信夫、1920年3月3日 - 1997年2月5日 実家は農家で男6人女6人の12人兄弟でダイマルは7人目の三男、ラケットは10人目の六男だった。 ダイマルは1923年に小田第一尋常高等小学校を中退。1926年に近所の大阪製麻に就職、後に職を転々とする。1930年に扇子屋玉四郎一座の芸人が映画俳優になり羽振りがいいのに憧れ、家出し俳優を志し一座に入るも断念。漫才の世界へ入り、兄と中田松王・梅王という漫才コンビを結成。後に中田デパート・ダイマルと改名し1934年に天神橋五丁目葵席が初舞台。当時デパートは音曲漫才に憧れたがダイマルは横山エンタツ・花菱アチャコの楽器を持たないいわゆるしゃべくり漫才に憧れていたので不本意ながらコンビを続ける。1941年に兄が結核性の腎臓病で病死したため、工員であった弟・信夫と無理やりコンビを組み、中田ダイマル・ラケットを結成した。十三朝日座でデビューを果たし、戦時中は地方廻りをする。このころに後に十八番のネタになるチャールズ・チャップリンやエンタツ・アチャコの映画などを参考に「拳闘漫才」を考案し愛知県の小屋でネタおろしをすることになる。 戦後間もないころから劇団(一座)を結成、1946年には松長興業に所属し千日前南地劇場、阿倍野近畿劇場、神戸新開地劇場など小さな劇場に出る。1947年に戎橋松竹の幕間の「拳闘漫才」で話題を博し、民放テレビの黎明期の1958年(昭和33年)に、朝日放送の専属タレントとなった。『お笑い街頭録音』『ダイラケ二等兵』『ダイラケのびっくり捕物帖』『スチャラカ社員』『ダイマル・ラケットのみんなの歌謡曲』『すかたん社員』などの番組に相次いで出演し、一世を風靡した。 「スチャラカ社員」の終了後は、テレビ出演よりも演芸場への出演に重きを置くようになり、同時に後進の指導に当たった。1970年に松竹芸能から吉本興業に移籍。 1978年に心斎橋パルコにて、傑作ネタの数々を後世に残すために「笑学の会」主催で9月13日〜15日の3日間にわたる独演会「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」を行い、全盛期を知らないファンに対して、ダイ・ラケ漫才健在を印象付けた。この時は、3日間でアンコールも含めて計10席行ない、関係者、プロの芸人なども会場に訪れ、舞台袖で生で見ていたという。またCBSソニーからレコード化され、読売テレビと大阪放送が収録の上で放送した。 横山エンタツ・花菱アチャコ、夢路いとし・喜味こいしらの正統派しゃべくり漫才の系譜とは一線を画し、奇抜な着想から作りこんだ奇妙なシチュエーションをもとに緻密な計算の行き届いた展開や構成で笑わせるタイプの天才肌漫才であった。初期にはボクシング漫才を舞台で行うなど、激しい動きを伴う漫才を披露していたが、ダイマルの持病の治療の為に飲み続けた副腎皮質ステロイドの影響で満月様顔貌を発症して身体が太ってしまい、体を使った漫才が演じられなくなったため、アクションの面白みは身振りの滑稽味に残しつつも、持ち前の話芸に磨きを掛けて独特なスタイルを確立した。 ダイマルの頭脳と身体をフルに使った機関銃のような笑いの攻勢は、客席ばかりでなく時には相方ラケットさえ舞台上で笑わせてしまう(その様子がさらにおかしさを倍加する)ほどの凄まじい威力であった。またダイマルのボケを受けるラケットのツッコミも絶妙な間と、時にはボケに入れ替わって笑いを取ることができるほどの上手さであった。そのためダイ・ラケが舞台に立つと、客席の笑い声が凄すぎて小屋が揺れたという逸話が残っているほど。客席を笑わせる間隔の短さでは、このダイ・ラケを超える漫才はいまだに登場していないと言われ、ダイ・ラケ漫才は「3秒に1回笑わせる漫才」と言われることもある。 ダイマルは酒と女性を好み、人気も収入も全盛期であった53歳の時に当時の妻に全ての動産・不動産を譲ることを条件に離婚、32歳年下の女性と再婚した。この妻は作家としてダイマルとのドキュメント小説を出版している。なお、和子夫人はダイマルの長男よりも年下である。この結婚は当時ワイドショーで大変話題となり、バラエティ番組でも司会者からよく突っ込まれていた。 結婚歴は二回であるが、一人目との妻との間の三番目の子供とは別に、妾の女性との間に次女と同い年の娘がおり、ダイマルのマネージャーを勤めた頃もあった。また、加齢のためレギュラー番組がなくなってからは特に飲酒量が増え、それがもとで胃潰瘍になり、1982年9月5日、腹膜炎により亡くなった。 ラケットは明るく遊び人であった兄ダイマルとは対照的に、とても無口で神経質な性格であり、大きな舞台では顔が引きつったラケットをダイマルがニコニコ笑いながら励ます光景がよく見られた。 代表作に、『僕は幽霊』『家庭混戦記』『僕の恋人君の恋人』『恋の手ほどき』『地球は回る目は回る』『僕は迷医』『僕は迷優』『僕の時計(僕の健康法)』『僕の漂流記』『僕の農園』『僕は小説家』『無線車』『ジャンケン』『僕の発明』などがあり、「いうてみてみ」「きいてみてみ」・「なんじゃとて」・「かわいそうになぁ」・「青火がパァ、ボヤがボォ」・「いっしょやいっしょ〜」・「そーやがな、そーやがな、そーやがな」などのフレーズが有名。(これらの言い回しは弟子筋にあたる中田カウス(中田カウス・ボタン)に受け継がれている。) 主に1970年代に放送された『ライオンお笑いネットワーク』(読売テレビ)と「漫才笑学校」の中から、6本を収録したDVDがポニーキャニオンから発売されている。 所属事務所は長年松竹芸能に所属し、道頓堀角座の看板芸人として君臨してきたが、1970年に吉本興業へ移籍した。これは、吉本に所属していた弟子の中田アップが画策したもので、角座で「とり」を取ってしかるべき芸人が「とり」を外されたので癪に障って行動に移した。しかし、皮肉にも吉本移籍後も花月劇場チェーンで「とり」を飾ることは少なかった。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
東京の「落語定席」のひとつとして落語のほか、漫才、漫談、マジック、曲芸、紙切り、粋曲、ものまね、コントなど多種多様な芸が楽しめる浅草演芸ホールを春風亭一之輔がご案内! 渥美清、萩本欽一、ビートたけしらを輩出した浅草演芸ホールの舞台裏に迫る!! 落語通も知らない人も必見の情報多数です!お見逃しなく!! #落語 #浅草演芸ホール #春風亭一之輔
ぼんちおさむ・里見まさと 「ザ・ぼんち」の漫才をお楽しみください。 #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #ザぼんち ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね 🤍 ザ・ぼんち 1. 🤍 2. 🤍 3. 🤍 4. 🤍 5. 🤍 6. 🤍 7. 🤍 8. 🤍 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ぼんち おさむ(1952年12月16日)本名:長瀬 修一。 松竹新喜劇俳優の曾我廼家明蝶の開設した俳優養成所「明蝶芸術学院」で喜劇役者を目指すが、タイヘイトリオの勧めで漫才に転向し浮世亭歌楽の指導を受ける。3か月ほど「やらかす一石・二蝶」というコンビを組んでいた。 「ザ・ぼんち」の一時解散後、俳優としての活動を始め、『はぐれ刑事純情派』などのテレビドラマなどに出演。 里見 まさと(1952年4月25日)本名:里道和。 小学校3年生の時に両親が離婚したのちは、父に育てられる。プロ野球選手を目指して大阪の興國高校に進学し、野球部に入部するも、レベルについていけず野球を断念。そんなときに読んだ週刊誌で「西川きよしさんが『二十歳で家建てた』っていう記事を偶然読んで、こら漫才しかないなあと思い立った。高校時代の同級生にのちの相方・おさむや九十九一がいた。高校卒業後の1971年にタイヘイトリオに入門。 「ザ・ぼんち」の一時解散後、おさむ同様俳優業に挑むも、収入が月7万円に落ち込むなど、家族4人で生活できないほど困窮し、自殺を考えるほど追い詰められたが、テレビ番組で共演した亀山房代とともに1989年、「里見まさと・亀山房代」を結成、若手扱いから再出発し、1997年に第26回上方お笑い大賞金賞、1998年に上方漫才大賞を受賞するに至った。亀山の結婚・妊娠により、2001年末に「まさと・亀山」は円満解散した。 最近はピンでの落語や講談にも力をいれており、とくに講談は3代目旭堂小南陵(後の4代目旭堂南陵)の勉強会に参加し10席ほど稽古を付けてもらっている。講談師としての芸名は「旭堂 南総里見八犬伝」。 おさむとまさとは大阪の興國高校の同級生であった。ともにタイヘイトリオに師事(レツゴー三匹の弟弟子にあたる)。1972年11月にコンビを結成し、翌年の1973年コンビ名を「ザ・ぼんち」として、同年なんば花月中席で初舞台を踏む。コンビ名は、山崎豊子の小説『ぼんち』に由来。当初は松竹芸能に所属したが、やがて和光プロダクションを経て吉本興業に移籍。1975年に発足した秋田實ら漫才作家による若手養成の会「笑の会」に第1期メンバー(他にチグハグコンビ、ガッツジョージ・アーボー、海原はるか・かなた、森啓二・喜多洋司)として入会し、腕を磨いた。 そのかたわら、ぼんちは毎日放送『ヤングおー!おー!』の番組内ユニット「チンチラチン」のメンバーとして売り出し、同局の『モーレツ!!しごき教室』にも出演して若手タレントの注目株と目された。 やがてザ・ぼんちは1978年10月8日の同会の東京公演「やりまっせ!! 大阪漫才 東京なぐりこみ爆笑大会」において、漫才作家の大池晶が「特にぼんちの漫才の受け方は異常でした」と回想するほどの爆笑を生み、この様子を観客として見ていた東阪企画の澤田隆治に、のちに漫才ブームのきっかけとなる様々な番組の企画を決意させるきっかけとなった。 1980年、関西テレビの『花王名人劇場』やフジテレビの『THE MANZAI』など、澤田や横澤彪らの仕掛けによる一連の漫才番組に横山やすし・西川きよし、B&B(島田洋七・島田洋八)、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シローらとともに出演。たちまち全国的な人気を獲得するに至る。ぼんちはそれまで関西以外では無名に近いコンビだったが、『THE MANZAI』第1回放送の翌日、長崎大学の学園祭に出演するため飛行機で移動していた2人に客室乗務員がサインを頼んでくる状況に直面し、まさとは「僕の人生は変わった」と感じたという。 1981年、シングルレコード「恋のぼんちシート」を発売し、売上約80万枚に達し、オリコンチャートでは最高位2位を記録する大ヒット曲となり、同年全国7か所縦断コンサートを開催。最終日の7月21日には日本武道館で公演し、武道館でコンサートを開催した初の漫才師となった。このころまさとは「末路は哀れでもええから、人気のあるうちに好きなことしよう」とコンビで話し合ったことをのちに回想している。この時期、テレビ・ラジオのレギュラーが週14本あったのに加え、劇場の出番をこなし、合間に取材を受けるという殺人的な多忙ぶりとなり、静岡と山梨で同日同時間に営業の仕事が重なる状態となり静岡からヘリコプターで山梨に移動した、楽屋で点滴を打っていた、などのエピソードが残る。 漫才ブームが沈静化するに従い仕事が減少し、また芸の消耗が激しかったこともあり、ザ・ぼんちは1986年に、一時コンビを解散した。 長い休止期間をはさみ、2002年に再結成した。2014年にはかつての同名の番組にちなんだコンテスト番組『THE MANZAI』に出場、認定漫才師50組に選出された。その予選控え室や会場通路の至る所で熱心に練習に励む若手の熱気と気迫に圧倒され、年数制限がないからと軽い気持ちの参戦を後悔する反面、前向きに漫才に取り組む若者達の姿に感動し、以後レギュラーの劇場出番のほか、若手中心のライブや学園祭にも積極的に参加し、記念ライブの会場に敢えて若手中心プログラムの常設劇場であるルミネtheよしもとや、古い歴史を持つ大須演芸場を選ぶなど、ベテラン、大御所という自覚を持たず若手と同じ目線、立場での芸能活動を展開している。 スマートな男前のまさとが丁寧にネタを振り、そこへ乗って大きくボケるおさむのコンビは異色であった。この構図の原点はアメリカのコメディアンのコンビ「底抜けコンビ」(ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス)にあるという。おさむはルイスの大ファンであることを公言しており、髪型やダンスなど、芸風が重なる部分も多々ある。 結成当初は秋田實直系の正統派のしゃべくり漫才を志向していたが、ギャグと動きが満載の爆笑漫才でブレイクしたため「引っ込みがつかなくなった」。 漫才ブームの時期は通常の背広ではなく、いわゆる「アイビールック」を着用し、トレードマークとなった。 ・おさむちゃんで〜す(おさむ) このセリフのあと続けて自分の頭をげんこつで叩くフリをしながら口内で舌を鳴らす。 ・おさむ「そうーなんですよ、川崎さん」→まさと「ちょっと待ってください、山本さん」 テレビ朝日系『アフタヌーンショー』のレポーター山本耕一と司会者・川崎敬三のやりとりをものまねしたもの。「恋のぼんちシート」の中でも演じている。 ・○○……、潮来の伊太郎〜、あれ〜(おさむ) 橋幸夫のものまね。何を歌っても橋幸夫になってしまい、歌声の確認のために短く「潮来笠」を歌っては困るさまを演じる[8]。 ・今日、耳日曜(おさむ) ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
長寿番組?「中根の部屋」へようこそ。 「今日のゲストは人気ラジオ番組『ごぜん様さま『』の横山雄二さんです。」 黒柳中根の横山を見つめる眼差しがコワい。 ごぜん様さま 🤍
春風亭一花 落語家 現二ツ目 出囃子 : 晒女 落語協会所属 師匠 : 春風亭一朝 兄弟子 : 春風亭一之輔 春風亭三朝 春風亭一左 浅草演芸ホール #落語家 #寄席